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レーサーとしての浮谷東次郎

1960年代初頭から活躍

浮谷東次郎は1942年に誕生し、1965年8月20日にコース上を歩いていた人物を避けようとして転倒して入院、翌日21日に亡くなった悲劇のレーサーです。
天才ドライバーとして活躍できる未来を所望されながらも23歳という若すぎる死を遂げてしまった人物と表現されることもあります。

1963年からトヨタの契約ドライバーとなった浮谷東次郎は翌年の1964年からレースデビューを果たし、模擬レースではトップになるなど契約ドライバーになった直後からすでに頭角を現していたのです。
さらに翌年の1965年には才能の片鱗をすでに見せ、ホンダS600を改造したマシンで第2回クラブマンレース鈴鹿大会で優勝しています。

サーキット攻略法解説も手掛ける

非常に短い人生だった浮谷東次郎はそれでも様々な逸話やエピソードがある人物であり、当時の友人や彼が残した記録やメモなどからも様々な情報を知ることが出来ます。
中でも少年時代からクルマやオートバイが大好きで自動車雑誌やオートバイ雑誌に登場する天才少年だったこと、そして知識が豊富であったことからサーキット攻略法をレース出場とともに本格的に行ったことが有名です。

他にもテストドライバーとして様々な新型車に試乗したときには試乗記などを執筆していたという報告もあり、車やオートバイやレースが本当に大好きだったことがよくわかります。
もっと長生きしていれば様々なコースの攻略法をまとめた本が執筆されていた可能性も高かったでしょう。
それがあれば現代のレーサーにおける必須バイブルになっていたかもしれません。

評価について

あまりにもプロのレーサーとしてもあまりにも短いために評価は割れています。
やはりプロレーサーとしてのキャリアが2年しかないため、そこからどれだけ伸びるのか、どれだけの栄冠を手に入れられたのかは推測と憶測になってしまうのでしょう。

ただし、当時の天才と言われていたレーサー生沢徹と熾烈なトップ争いをして優勝をするといった姿を見せていたこともあり、将来を嘱望された天才という声も多かったようです。
実際にその姿があまりにも強烈だったので日本の元漫才師である上岡龍太郎が『僕にとってのヒーローは石原裕次郎と浮谷東次郎』と述べたのはあまりにも有名でしょう。

F1に最も近いドライバーだったのか?

身近すぎるレーサーとしての輝きは本物であったという声も多く、その姿から最もF1レーサーに近い人物とも言われていました。
しかし、あまりにも無茶なスタイルから一部のレーサーからいずれ大事故を起こす可能性があるという声があったという情報もあるのです。
それでも長生きしていたのなら日本のレース業界にどれだけの影響を与えてくれたのかが気になる人物であることは間違いないでしょう。