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浮谷東次郎の生い立ち

開かれたノート

浮谷東次郎誕生

浮谷東次郎が誕生したのは1942年7月16日のことであった。
出身地は千葉県市川市出身で浮谷家で誕生している。
特徴として、浮谷東次郎の誕生した浮谷家は地元の庄屋の家柄であった。

浮谷家は、ガス会社をはじめ自動車学校なども経営しているなどかなり経済的に裕福な家に生まれたことがわかる。
そのため浮谷東次郎自体子供のころから生家の恵まれた環境で育った人物であることがわかる。

また、浮谷東次郎の父親である洸次郎はポルシェクラブの会長も務めるほど車が好きな人物であった。
それもあって浮谷東次郎は小さいころから車やオートバイに接する機会があったのである。

中学3年生の旅

浮谷東次郎は中学3年生の夏休みに入るとドイツ製の50ccのクライドラーにのって市川市から大阪市へと一人旅をした。
旅の目的としては母方の祖母を訪ねるためのものであった。

現在ほとんどの道路が整備されているが、当時というのは一級道路であってもそのほとんどが砂利道という状態だったのだ。
そのためその時代で浮谷東次郎がしたのは冒険に等しい行為であった。

長い道中のなかで浮谷東次郎はたくさんの人との出会いもあり、体験もしたのだがその出来事に関しては「がむしゃら1500キロ」という私家版として本にしているのだ。
中学3年生の行動力とは思えないことの数々には関心するばかりだ。

アメリカへと

18歳になると、浮谷東次郎は実家の経済的な支援は受けたもののほぼ自分の力でアメリカに留学をしているのである。
19歳に入りニューヨーク市私立ローズ高校夜間部に入学している。

また、高校に通いながらタイム&ライフ社へ勤務しているのである。
仕事を初めて少し経つとニューヨークで一人暮らしを始めるが、その2か月後にローズ高校を去っている。

ニューヨークを出て働きながらカルフォルニア州マウント・サン・アントニオ・カレッジに入学しているが、20歳の時に出席日数不足で退学している。
その後大陸横断往復のオートバイでの一人旅に出ている。

オートバイレース

日本へと帰国した浮谷東次郎は1964年に行われた第2回日本グランプリT-Vクラスにてトヨタ・コロナでレースデビューを果たしている。
プリンススカイライン1500が優勢と言われているなかで、同一車種では最速であった11位でのゴールを果たした。

その後もホンダS600を改造して作られたカラスでレースに出場し、第2回クラブマンレ^-ス鈴鹿大会で優勝している。
同じ年の船橋サーキットで行われた全日本自動車選手権でも最後に驚異的なごぼう抜きをし、優勝したのだ。

こういった経歴から、周囲からの期待は非常に大きく今後の活躍も期待されていた選手であった。
しかし同年の事故死により生涯の幕を閉じてしまった。