GT-Iレースに参加
レース業界に彗星のように現れて、そして消えていった天才としても名高い浮谷東次郎ですが、その中の逸話として今も語り草になっているのが1965年7月に開催されたGT-Iレース、『全日本自動車クラブ選手権』です。
色々とサーキット業界では伝説にカテゴライズされるお話はありますが、浮谷東次郎その人があまりにも早く亡くなってしまったために伝説に加えている人も多いのです。
この全日本自動車クラブ選手権は端的に言うと優勝候補だった生沢徹が乗る『ホンダS600』と浮谷東次郎が乗る『トヨタ・スポーツ800』の対決でした。
親友でありながらも最大のライバルだった二人が、日本を代表する自動車メーカーホンダとトヨタの車を駆使して戦う最高のステージが千葉県にある船橋サーキットで行われたレースだったのです。
S600を改造し「カラス」を作る
この時のレースで活躍した2台の車は速さという意味では共通していますが、コンセプトが真逆でした。
生沢徹が乗る『ホンダS600』はいわゆるハイパワーだけど重い車で、浮谷東次郎が乗る『トヨタ・スポーツ800』は小型大衆車をベースにしているだけあってパワーは少ないけど軽い車だったのです。
この2台が白熱のデッドヒートをすることになったのです。
しかし、当時はワークスドライバーが他社のマシンにも乗れる時代だったので、なんと『ホンダS600』の方を気に入ってボディー改造を施し弱点の克服に挑みました。
その結果誕生したのが『カラス』です。
このときに改造のための設計と製作を請け負った人が後に童夢を創業することになる林みのるだったのも有名なお話でしょう。
奇跡の逆転
奇跡の逆転と言われる背景には浮谷がレース中に接触を起こしてしまいピットインを余儀なくされ53秒もの遅れが発生したことにあります。
30周のレースでこの53秒は致命的になりますが、それでもすさまじい勢いで復帰した結果、すさまじい逆転大勝利を見せてくれたのです。
僕がその場にいたのならば間違いなく絶叫していたことでしょう。
これを生で見ていた人にとって、浮谷東次郎は将来を嘱望された天才ドライバーとして間違いなく映ったはずです。
このレースから浮谷の名前は一気に広まり、業界の中でも話題となりました。
彼は努力の天才だった
若い頃から台頭して一気に花開き、大輪を咲かせることなくちってしまった天才ですが、彼を知る人達は努力の天才と表現することが多いです。
努力で若いうちにあそこまで到達できたというのもすさまじい才能を感じますが、それを思うと長生きしてもっと努力を重ねた未来をより見たくなってしまいます。
モータースポーツ創生期のスターは何人かいますが、その中に確実に入る偉大な人だとも言えるでしょう。