浮谷東次郎の事故死
浮谷東次郎は船橋サーキットにて2レース優勝を果たしましたが、その翌月に鈴鹿サーキットで練習をしていた際に事故死している。
コース上を歩いていた人を避けようとしたことがきっかけで事故が起こってしまったのだ。
人を避けた浮谷東次郎は、コース脇にあった水銀灯に激突している。
これにより、両足は骨折し頭も強打し重症となってしまう。
そして翌日に脳内出血によってこの世を去ってしまったのだった。
しかし、レース直後には喋っていたなどとも言われており頭を打ったため調べてほしいと医師に頼んでいたとも言われている。
脳内出血により亡くなったということで、頭部を強打したことが大きな影響を与えてしまったようだ。
シートベルト問題
事故に大きな影響を与えていると考えられているのがシートベルトだ。
事故が起きた時に浮谷東次郎はシートベルトをしていなかったと言われており、それが怪我をより大きなものにしてしまったという声もあった。
水銀灯に激突した際に浮谷東次郎は大きな衝撃を受け、マシンの外に放り投げだされてしまったのである。
そのためシートベルトをしていれば車外に放出される事態は避けられたのではとも言われている。
シートベルトさえしていれば、起こってしまった事故で浮谷東次郎が命を落とすということもおきなかったかもしれない。
シートベルトが与える安全面への影響はかなり大きいものだろう。
乗っていた車
事故が起こってしまったときに浮谷東次郎が乗っていた車は実はレース用の車ではなく、カラスを製作していた林みのるの個人の車であるホンダS600だったのだ。
浮谷東次郎のために製作が進められていたレース用マシンへの移設が予定されていたためにシートベルトがついていなかったという。
さらに、実は林みのるに許可を得て車を借りたわけではなく浮谷東次郎は勝手に乗り込んでコースインしてしまったというのだ。
そのため林に事故の責任はないというのが多くの人の意見である。
しかし、林の車に浮谷東次郎が勝手に乗り込んだ背景として林たちのマシンの製作が遅れていたため、浮谷東次郎がレース前に練習をする時間がなくなってしまったのだ。
そのためそれが浮谷東次郎を焦らせてしまったとも言われている。
まとめ
浮谷東次郎は亡くなった当時日本人でF1に一番近いレーサーも言われていただけに、早く亡くなってしまったのが非常に惜しまれる。
しかし彼のプロレーサーとしての活動期間は2年程度のものであった。
さらに大きな戦績を挙げたのも最後の2戦程度のものであったことに加えてレーサーにとって重要とされている視力も弱いレーサーであった。
また、天才型というよりは努力型であったとも言われている。
活動期間が短いまま亡くなってしまったため、秘められた可能性も未知数のままで終わってしまった。
活躍が期待されていたレーサーなだけに早すぎる死は非常に残念であった。